[長崎街道]小倉~黒崎宿へ

5月4日晴れ、引き続き天候良好なり。

今日から旧長崎街道を巡る旅が始まる。

・朝5時半に目覚めて、準備をし、6時過ぎのバスで小倉方面へ。
勝山橋で降りて、旧長崎街道の起点である思案橋へ向かう。

思案橋の側には、「思案橋の由来」が建ててあり、その側に「伊能忠孝測量200年記念碑」が設置してある。

 

思案橋の由来
「常磐橋は江戸時代の初め頃、小倉の城下町の東曲輪(主として町人が生活していた地域)と西曲輪(主として武士が生活していた地域)を結ぶ、重要な橋として架けられ、当初は大橋と呼ばれていました。
この橋の西勢溜(橋詰)が長崎街道の起点となっていたため橋の周辺は幕府役人や旅人の宿などが建ち並んでにぎわっていました。
参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、多くの人々がこの橋を渡っています。中でも有名なのがドイツ人医師シーボルトで、この橋を銅版画で紹介しています。
このように海と陸の玄関口として、九州の各街道すべてがこの大橋に連なり、九州における日本橋となっていました。
この度、川幅を広げるため橋の架け替えが必要になったのを機会に、コンクリートと同じ強さを持つ木材を使い、江戸時代の姿「木の橋」としてよみがえることとなりました。」

・旧街道跡を順調に歩きだしてると、現在の田町辺りは、福岡・北九州都市高速道路とその下に道路が通っているため直接は歩けず、少しだけ横断歩道側に移動して渡り、そのまま進むと地図上では、現在の金田、福岡地本裁判所辺りは、寛政道、幕末道、昭和道の三本の道が地図に表示されているが、歩いて行けるのは寛政道のみになっている。

・清水(きよみず)町の国道3号線と交差する辺りは、区画整備されており、街道跡もなく、道路に沿って歩くと途中に「水掛け地蔵尊」がある。

長崎街道跡記念碑建立について
この街道は、昔からあった官道で、筑前街道又は、長崎街道と称されていました。
藩制時代は、長崎と京都、江戸をつなぐ唯一の西海道の交通の要所であって、諸国大名の参勤交代の折は、この地に駒を止め、しばしば憩いの場所としていました。
遠く万葉歌人や、大宮人も通り、藩制時代には、幾多の文人墨客たちが、その旅日誌に、この辺の風景を画いています。二千年の歴史は、幾十万人の旅人がこの道を通行し、また憩いの場所としたことでしょう。
また、天平十二年、板櫃川の戦いのとき、朝廷軍の勝利となった歴史の地でもあります。
最近、都市開発が進み、祖先の残した文化的遺跡が失われようとしています時、この碑を泉台老人クラブで、昭和四十一年一月建立したのであります。(泉台校区社会福祉協議会碑文再建之)

・”六条橋”を通って高見へ。以前ここは新日鉄八幡製鉄所の社宅があったが現在は宅地開発が進み、旧街道跡は住宅地になっている。その中でここが旧街道跡であった事がわかるのは「荒生田の一里塚跡」碑。
 

荒生田の一里塚跡
一里塚は、街道の両側に一里(約四キロメートル)の目印として小高く土を盛った所です。一里塚には榎や松などが植えられ、江戸日本橋から全国への距離を旅人に知らせる目印や、馬や駕篭の料金を支払うときの目安になりました。
戦国時代の末期にはすでに存在していましたが、本格的に整備されたのは一六〇四年(慶長九)に江戸幕府初代将軍徳川家康が命じてからです。
小倉から長崎までの長崎街道にも一里塚が設けられ、八幡東区内には、前田と荒生田に一里塚がありました。「正保年間豊前六郡図」に「一里山より境目まで五十間」との書き入れがあることから、筑前との国境(くにざかい)から約九〇メートル先にあったと思われます。(正保年間:一六四四〜一六四八年)

・旧街道は、”戸畑バイパス西”辺りからは3号線とJR鹿児島本線を超えた辺りになっているが、歩く道はなく、3号線に沿って進み、”西本町1″から分かれて進むと、市立八幡図書館前に国境石がある。

・”桃園2″より3号線沿いに進み、”紅園1″よりJR鹿児島本線を超えて旧道へ。
ここら辺りから黒崎宿になり、最初にあるのは「東構口」跡。
 
 
 

・再度3号線を渡って継ぎの跡地である「人馬継所」跡を探すと見つからない。道に迷ったと思いGoogle Mapで位置を確認すると、少し行き過ぎており、戻ると探してた跡地が見つかった。

ここまで約13km、なかなか快調。

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